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浦里民謡について
川西地域はかつて、1957年に浦里村(一部除く)・室賀村・上田市(小泉地区)が合併して「川西村」となり、1973年に上田市に編入して、今に至っています。
その「浦里村」(1889~1957年)にかつてあったという「浦里民謡」。
この民謡は、現在約70~80代以上の方々しか知らないそうで、踊りもありますが、踊りを覚えている方はさらに少ないそう。
この方々がいなくなってしまったら、浦里民謡はもう一生蘇らない…と思い、取り急ぎ記録することにしました。
かつてのレコードをCD音源に。そして民謡の成り立ちを、浦里村時代の新聞「浦里村報」を漁って調べました↓

【浦里民謡について】
養蚕業が盛んだった浦里村は、昭和5年(1930)の世界恐慌による繭価の暴落で莫大な借金を抱え、農村生活に深刻な危機を迎えます。
当時の村長・宮下周氏の尽力で更生運動が始まり、徐々に経済を立て直したものの、一方で当時の日本は満州事変(昭和6年)などの不穏な社会情勢のさなかにあり、また近代文明の波が農村にも押し寄せ、村人はこれまで培ってきた郷土を愛する心や共助の精神、自然や生業が失われてしまうのではないかという不安を抱えていました。
そこで郷土民謡を作り、先人の努力や奮闘に改めて思いを致し、今後ますますの郷土発展への一原動力にしよう!ということで、『浦里村報』(昭和10年1月)にて郷土民謡を募集したのです。
そして同年5月に浦里村報にて、民謡の当選が発表されました。また、11月に振り付け完成の記事も載っています。
「この民謡をあらゆる方面に活用して、永久にこれを存続いたしたく切望するしだいであります」との一文もあるように、浦里民謡は完成以降、村民運動会や労働、集会などで、戦時中も歌い踊られ続けていたようです。しかし、川西村になってからはしだいに踊られなくなり、結果20年余りの間だけ踊られていた幻の民謡となったのでした。

当時の新聞を読むと、郷土への愛や想いがびしばしと伝わる言葉選びや企画が溢れていて、とても感動しますし、考えさせられました。
浦里村の方々が危惧していたように、近代化の波は農村の景色や人々の価値観を一変させ、改めてこの100年足らずでこうも何もかもが変わってしまったのかと……。
浦里民謡を知る過程で、現代で失われた大切なものも教わった気がします。

また、踊りについて、覚えている方を訪ねて動画を撮らせていただきました。耳に残るメロディと、しなやかな踊りがとても素敵です。
浦里地域で行われる運動会で復活させよう!という声もありましたが、現在はストップ。せめて浦里民謡というものがあったということを、記録しておこうと思います。
最後に民謡の歌詞を紹介します。当時の様子を伺い知れます。
一、ここは信州浦里村よ
嵐どこを吹く 更生の意気
共存共栄の花咲くところ
あぁ嬉しいな 村長さんは若い
二、西にあふぐはこまゆみ嶽よ
東はるかに浅間の煙
朝日夕日に色映え増せば
あぁ嬉しいな もうすぐ春だ
三、浦野河原にゃ雪解け水よ
麦は青々黒土踏んで
今日も朝から鍬打ち振れば
あぁ嬉しいな 鳶が輪をかいた
四、白い手拭かるさん姿
畑にちらちら桑摘む乙女
汗の下には笑顔がのぞく
あぁ嬉しいなお蚕育つ
五、昔なつかし班田のあとに
渡る涼風鳴子をゆすりゃ
はっと飛び立つ雀もおかし
あぁ嬉しいな黄金の波だ
六、さあさ目覚めよ夜明けだ朝だ
村の若衆の振る鈴の音に
やがて明けゆく更生日本
あぁ嬉しいな輝く郷土